鳥居正宏様がご自分のブログで、フォト・ジャーナリストの森住卓さんが
沖縄での集団自決について配信されたレポートを紹介されている。
涙なしでは読めないくらい凄絶な内容だけど、これがわずか60年前に、
楽園のように美しい島々で繰り広げられた事実だ。
悲しみをこらえ、となり近所の目にも耐えて話を聞かせて下さった方たちの勇気に感謝します。
→沖縄・凄惨な集団自決の証言 −フォト・ジャーナリストからのレポート−
(鳥居正宏のときどきLOGOS様:071013)
★「続きを読む」にレポートを引用しましたので是非お読み下さい。
そして集団死を強制された方達の傷口をもう一度切り開くような、歴史記録の
卑劣な隠蔽・捏造が、住民自身に再び強制されたそうだ。
怒りのあまり身震いがして来る。
米軍上陸後、多くの将兵を突撃死させ、住民をスパイとして虐殺し、自決させた
座間味の元部隊長・梅澤裕少佐という人物。
彼は、文科省が高校歴史教科書の書き換えの理由にした裁判で、「軍命はなかった」
事にして自分の名誉を回復する裁判の資料ほしさに、ワザワザ1987年に座間味を再訪した。
いやがる元村収入役謙兵事主任の弟さんに「戦友」(所属違いの単なる顔見知り)を差し向け、て酒を飲ませ、
ベロンベロンにした時点で梅沢氏がウソ文書を持って来て、
「軍命はなく住民は自発的に集団自決した」という文面ににまんまと実印をつかせた。
この弟さんは、当時福岡の部隊にいて、お兄さんが自決にどう関ったかすら見ていない。
その年の神戸新聞に「梅澤の自決命令はなかった」との記事が載り、
この文書は裁判の証拠として提出されたそうだ。
(これが歴史教科書ねじ曲げの根拠に流用されたワケだ。)
こういう最低の人物が実際には兵士や住民を将棋のコマのようにもてあそんだのだ。
2.「敵の言うことを信用するな」...一将校が守り抜いた命令
小野田寛郎(おのだ ひろお)さんは、その教えを守り、フィリピン・ルバング島で
先立った何人かの戦友の方と共に、終戦を信じることなく30年も孤独な戦いを続けた。
元上官が命じて、やっと投降した。
そんな小野田さんが先月(07年9月)、毎日新聞の取材に答え、
久しぶりに心中を語ってくださった。
よく知られているように小野田元少尉は、陸軍中野学校二俣分校(*)で破壊工作や
ゲリラ戦を専門に学んだ、バリバリの情報将校だった。
最前線でゲリラ戦を指揮し、命の全てをひたすら国に捧げ続けた男が、
なぜ愛する祖国への帰還早々ブラジルへ移住して牧場主となり、
何を胸に抱き、また帰ってきたのか。
(*諜報員養成を主とした本校と違い、こっちは実戦専門。
今で言えば、ベレー帽をかぶった特殊部隊。)
→特集ワイド:この国はどこへ行こうとしているのか 小野田寛郎さん
(毎日:070928)
★「続きを読む」に元記事を引用しました。
自著「たった一人の30年戦争」はじめ、いろんな小野田さんの研究本が出てるけど、
いま改めて伺う小野田さんのナマの話には考えさせられる。
1974年、「元日本兵生還」のセンセーションの中、マスコミに言われた。
『あいつは女のヒモになって生きてきた』
『カッコつけて出てきやがって』
― 冗談じゃない
政府からの見舞金を、せめてもの戦友への供養にと靖国に奉納したら、
『軍人精神の権化』
『軍国主義の亡霊』と世間に非難された。
― カネ・カネ・カネの日本人に幻滅した。
「結局、招かれざる帰還だったんです。
国民の年金保険料をネコババする政府なんか、そもそも私は信用していない。
兄が先に移住していた影響もあったけど、みんなの見ている前で、
裸一貫で生きていける能力を見せつけようと思って、牧場をやることにした。
自分の力で生きていけることを証明したかった」
「日本国はともかく、ぼくは戦争に負けていない。投降したけれど、
武装解除されたわけではない」
ここに全てが集約されている。
軍人はロボットじゃない。血の通った人間だ。
終戦後、カネ儲けに狂奔し続けた日本人が気付かないうちに喪くしたもの。
いのちを否定する戦争の風化とともに、再びいのちの輝きを忘れゆく社会。
目先の利益のためにアメリカに媚びへつらい、国を売る為政者たち。
時が止まったままの小野田さんには、それがハッキリと見えてしまった。
もうここに自分の居場所はない。
外へ出て、祖国を冷静に見られるようになったという。
そんな時、1980年に川崎・金属バット事件に再び衝撃を受けた。
少年が両親を撲殺。日本の子供たちが壊れてゆく。
たまらず、1984年「小野田自然塾」を設立。福島の豊かな自然の中で
子供たちにキャンプ授業を通して、ルバング島の事実も教える。
戦争の愚かさ、生きることの素晴らしさ。
小野田さんの行動力は驚異的だ。今年85歳。本物の憂国の士。
「教科書検定制度は堅持を」って、この期に及んで中山成彬元文部科学相が
「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」とか作って騒いでる。
→自民有志「教科書検定制度は堅持を」(asahi.com:071017)
「検定結果に対し、介入すべきではない」って、教科書に介入して
史実をねじ曲げた検定させてんのはアンタらだろが。
「沖縄戦について知られていない部分が多い」ので、
独自に沖縄戦を研究する小委員会を設けて「史実」を捏造するんだそうだ。
今のうちに、せいぜい好きにやれば。
「知られていない部分」の真実は、こうして次々出て来てるんだよ。
もうすぐ怒りのギロチンが下るから、頸でも洗って待ってなさい。
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特集ワイド:この国はどこへ行こうとしているのか 小野田寛郎さん
(毎日:070928)
(引用開始)
特集ワイド:この国はどこへ行こうとしているのか 小野田寛郎さん
<おちおち死んではいられない>
◇大きな顔しちゃいけない−−元日本兵・85歳、小野田寛郎さん
◇親は子どものかがみ 子がおかしくなるのは、きっと親に責任がある
約束した時刻まで、約1時間あった。東京・佃島の護岸で雨に煙る隅田川を見つめながら考えた。4冊の著書を読んだが、分からないことずくめだった。なぜ30年間もジャングルで戦ったのか。帰国後、すぐにブラジルに移住したのはどうしてか。そして、再び祖国へ舞い戻ってきたのは、何のために……。
10分前、小野田寛郎さん(85)が現れた。紺のスーツをきっちりと着こなし、妻町枝さん(70)を伴って。33年前、フィリピンのルバング島で説得を聞き入れ、軍服姿で投降した時と同じように、背筋はどこまでも、ピンとしていた。
「主人は耳が悪いので、話が通じないこともあって、お気を付けくださいね」と町枝さんに言われ、補聴器の入った小野田さんの耳に見入った。ルバング島の山中で、アリに両耳の鼓膜を食い破られたことが帰還後、話題になった。私の失礼な視線に気付いたのだろう。「アリにやられましてね」と、照れ笑いしながら雨空を見上げた。
■
帰還した74年の小野田さんは、眉間(みけん)にしわを寄せ、鋭利な刃物のような雰囲気を漂わせていた。しかし、現在の本人は、柔和な笑みをたたえた姿勢のいいおじいちゃんだ。
「もう10年以上、1年のうち日本で9カ月、ブラジルで3カ月、という生活です。日本に戻るたびに思います。人間個人は幸せになったかもしれないけど、国家という単位でみると、ずいぶん落ちぶれたように思いますね。国益というものをどう考えているのか。戦争に一度負けたぐらいで、腰が引けてちゃだめです。外交は国益のぶつかり合いだもの」
陸軍の情報学校である陸軍中野学校二俣分校を出た。「敵の言うことを信用するな」。ルバング島での30年間、軍の教えをかたくなに守り、戦い続けた。戦後、日本からの捜索隊や現地警察からの投降の呼びかけを信用しなかったのも、そのせいだ。
元上官の「作戦任務解除命令」を受けてやっと投降し、帰国したのもつかの間、1年少しでブラジルへ渡り、牧場主になった。
「ルバング島から帰国する際、フィリピン政府から無罪放免となった。山中で行動している時に敵と遭遇したら、命のやりとり(殺し合い)をしましたけれど、すべて不問となった。『敵ながらあっぱれ』ということで投降後に栄誉礼も受けました。でも、そのために『あいつは女のヒモになって生きてきた』『カッコつけて出てきやがって』と、マスコミにたたかれました。冗談じゃない」
■
帰国後の小野田さんの言動に対する世間の目もあった。「亡き戦友への供養に」と、政府からの見舞金(100万円)を靖国神社に奉納したことで「軍人精神の権化」「軍国主義の亡霊」という非難にさらされた。日本人の「金銭感覚」に幻滅した。
自著「たった一人の30年戦争」(東京新聞出版局)でも、こう語っている。「嫌なうわさを耳にした。私がお金を靖国神社に寄付したのは、政府から多額な補償金を内緒で受け取ったからだ、というのである。何でもカネ、カネの戦後日本人に絶望感を覚えた。これでは到底、日本に住めないと思った」
「結局、招かれざる帰還だったんです。国民の年金保険料をネコババする政府なんか、そもそも私は信用していない。兄が先に移住していた影響もあったけど、みんなの見ている前で、裸一貫で生きていける能力を見せつけようと思って、牧場をやることにした。自分の力で生きていけることを証明したかった」
移住したというより、祖国で暮らすことに我慢できなかった、という方が近いようだ。
「日本国はともかく、ぼくは戦争に負けていない。投降したけれど、武装解除されたわけではない」。間違いない。小野田さんは、祖国への複雑な思いを抱えたまま、まだ何かと戦っている。
■
ブラジルに渡った小野田さんは10年間かけて約1200ヘクタールの原野を切り開き、1800頭の肉牛を飼育するまでに成功を収めた。経営がまだ軌道に乗る前の80年11月、現地の邦字紙を読んで大きな衝撃を受けた。川崎市の少年が金属バットで両親を撲殺する事件の記事だった。小野田さんは、祖国の未来を担う子どもたちとかかわることに決めた。「小野田自然塾」の設立(84年7月)である。
「日本に頼ろうという気持ちがまったくなくなったら、この国を冷静に見られるようになった」という小野田さんは、福島県塙町の山中でキャンプ生活をしながら、子どもたちにルバング島での体験を踏まえ、自然の中で生き延びるすべを教えてきた。これまでの23年間で「教え子」は2万人にのぼる。
「荒れている子どもの家は決まって、幸福な家庭ではない。家庭で親が子どもをしっかりと抱きしめてあげなきゃ。安心感があれば、子どもだって落ち着いた人間になるんですよ。昔は、親を殺すような無軌道なことはなかったのに。親と子の連帯感が喪失してるんでしょう」
自然塾発足当初の小中学生はもう、親の世代。小野田さんは自然塾で若い親たちを集めたキャンプを開催しようと計画中だ。「親は子どものかがみ、子どもがおかしくなるのは、きっと親にも責任がある。親たちに何か、伝えなければと思って」
自然塾に集まった子どもたちには、ルバング島での「事実」を教えつつ、「だから、戦争にならんようにしなければいけない。戦争にならんようにするには、どうしたらいいか、大人になったら考えろよ」と繰り返し訴えている。子どもたちは、山の中で何を聞き、何を教わり、何をつかんで帰ってゆくのだろうか。
取材の翌日、安倍晋三首相が辞任表明した。感想を尋ねると、手書きのファクスで「健康上の理由ならば、万やむなしと考えます。昔のように『男なら』『日本人なら』という考え方は、現下の日本では『酷』というものでせう」。ルバング島で孤軍奮闘した小野田さんだからこそ、安倍さんに大喝するかと思ったら、思いやりにあふれた文面だった。読み返しながら、別れ際のひと言を思い出した。
「キャンプファイアの木は、燃やされるために生えてきたんじゃない。大きな木になるために生えてきた。人間の人生はせいぜい100年ぐらい、大木はその数倍にもなる。だから、人間は大きな顔をしちゃいけないんですよね」【野島康祐】
(引用おわり)
沖縄・凄惨な集団自決の証言 −フォト・ジャーナリストからのレポート−
(鳥居正宏のときどきLOGOS様:071013)
(引用開始)
「集団自決(集団強制死)」
(10月8日にUPした文章に年数などの誤りがありましたので、訂正しました。精査、訂正作業中ご迷惑をおかけしました)。
9月27日から10月13日まで沖縄で「集団自決(強制集団死)」の取材をしました。
その時出会った人々のことを記しておきます。
「集団自決」の舞台となった渡嘉敷村と座間味村は沖縄本島南部の西方海上の慶良間諸島にあります。(集団自決はここだけではありません)。
周辺の海は世界有数の透明度を誇っておりダイビングポイントもたくさんあります。この海域は毎年冬から春にかけて鯨がやって来る、ホエールウオッチングも出来る観光名所です。
那覇からの高速船は戦争体験のない若者たちで一杯でした。彼らの多くは62年前、太平洋戦争末期に起こった、この島々の悲劇を知る者は数少ないのではないでしょうか。
1945年太平洋戦争末期、押し寄せてきた米軍艦船で渡嘉敷村、座間味村の島々の海は埋め尽くされました。船伝いに本島まで渡って行けるようでした。
小さな島は米艦船に包囲され、連日激しい空襲と艦砲射撃が豪雨のように降り注ぎ、島の地形が変わってしまうほどでした。島にある船は破壊され、逃げるすべもなく島は完全に孤立しました。
「必ず友軍が巻き返しに来る」事を信じて疑うものはいませでした。
「一億玉砕」「生きて虜囚の辱めを受けず」の精神が浸透した魔の戦場と化したのです。「鬼畜米英」とすり込まれた住民は、「米軍に捕まれば男は八つ裂きにされ、女は強姦されて殺される」と信じ込まされ、捕まるより「天皇陛下のため、お国のためにいさぎよく死のう」とすり込まれていました。
米軍が上陸した3月26日(座間味)、27日(渡嘉敷)以後、集団自決(集団強制死)が始まったのです。
「集団自決(強制集団死)」を体験した証言者は62年間ずっと苦しみを背負って生きてきました。自分たちの体験が歴史教科書の中で歪曲されてしまうことに、身を震わせて怒っていました。自分の体験が歪曲されて後世に伝えられてしまったなら、同じ過ちが繰り返されると。
身内を殺し、死のうと思っても死にきれず生き残ってしまった人々の苦悩は想像を絶するものがあります。生き残ったひとびとのインタビューで「体験していない者には本当のところを理解できないですよ」と言われた時に、確かにそうだと思いましたが、同時に「あなたはジャーナリストとしてどのように伝えるのですか?」と問われたのだと思っています。
世界の戦争被害の歴史の中で、これほど残酷で無惨な体験を私は聞いたことがありません。
1945年3月末、米軍が上陸した後、米軍に追い詰められ、日本軍から保護をされなかった住民は「愛する故に愛する我が子を、妻を殺さなければならなかった」のです。「天皇陛下バンザイ」を叫んで。
渡嘉敷では米軍上陸の1週間ほど前に兵器軍曹が役場職員や青年にひとり2個ずつ手榴弾を配りました。「一発は米軍に投げ、一発は自決用に」と。
「生きて虜囚の辱めを受けず」「天皇のために、お国のために死になさい」と教育された住民に残された選択はひとつ。「自決」しかありませんでした。しかも、軍から手渡された手榴弾は操作の不慣れや不良品が多く、不発のものもたくさんありました。
手榴弾を持たない住民は鎌や棒きれ、石、カミソリ、縄や紐で、そして幼子を燃えさかる炎の中に。最後に残された父親は死にきれず気が狂ってしまったのです。
16と18才の兄弟は大人達がどうやって殺すのか、その殺し方をじっと見ていました。二人はやがて母と妹、弟を石で殴り殺したのです。
座間味国民学校の校長先生は妻と2人の女教師や住民と壕に隠れていました。米軍が迫ってきたことを知った校長先生は静かに「皆さん、こちらに集まってください」と住民をひとかたまりに集まらせたのです。そして「天皇陛下バンザイ」と叫んだ直後、手榴弾が爆発しました。2人の女教師は瀕死の重傷を負いました。
校長先生と妻は死にきれませんでした。やがて校長先生は妻を抱き寄せ、鞄からとり出したカミソリで妻のクビを切り始めました。じっと目をつむったままでした。そのため、妻のどこに刃が当たっているのかもわからず、何度も何度もクビに切り込みを入れてゆきました。妻は「まだですよ、まだですよ」と言いながら、やがて大量の出血で意識を失って行きました。
押し黙っていた校長先生は自分のクビに刃を当て一気にカミソリを引きました。「プシュー」と言う鈍い音ともに鮮血が噴き出し周りを血の海にしました。
狭い壕の中、校長先生の向かい合わせに座っていた9才の少年が全てを目撃していました。飛び散った校長先生の血が少年のシャツを真っ赤に染めました。その時の少年は「血が生暖かかった」ことを今も鮮明に覚えています。
「鬼畜米英」の思想は米軍に遭遇したときに米軍を憎しみ殺すという思想でした。しかし、武力を持たない、逃げまどう住民は戦場で圧倒的な火力をもつ米軍に遭遇すると、憎しみが恐怖に変わり、米軍に向ける刃を愛情をもつ家族に向けたのです。「殺意無き殺人、愛するが故の殺人」天皇制がいかに残酷で、残虐であるかが最も劇的な形で現れた事件でした。
さて、文科省が高校歴史教科書の書き換えの理由にした裁判で座間味の元部隊長・梅澤裕元少佐は「軍命ではなかった」と名誉回復を求めています。
しかし、彼は米軍上陸後、次ぎつぎと突撃命令を出し、多くの将兵を死に追いやり住民をスパイとして虐殺し、自決へと追い込んだ責任者でした。
梅澤少佐は、朝鮮人慰安婦を伴い壕を転々と逃げ回り4月10日、各隊に独自行動を命令。部隊の事実上の解散宣言をしてしまいました。本人は自決もせず生き延びました。米軍に捕まったとき朝鮮人慰安婦と一緒で、住民から石を投げられ、米軍に保護されながらトラックに乗せられ連行されました。
その梅澤元少佐が1987年に座間味を訪れました。目的は「軍命はなかった。住民は自発的に集団自決した」という証文をとるためでした。
元村収入役兼兵事主任の弟A氏に会い、「一筆書いて欲しい」と頼んだのです。しかし、元助役の弟は拒み続けました。元助役の弟は戦時中、徴兵され福岡県の部隊に配属されており、座間味にはいなかったのです。
A氏が梅澤氏の要請を断ったあと、福岡の時の戦友だという2人の男が泡盛を持ってやってきました。その時の様子は宮城晴美氏の著書「母の遺したもの」に書かれていますので引用します。
「ところがその夜、M・Y氏(ブログではA氏 以下同じ)の元戦友という福岡県出身の二人の男性が、慰霊祭の写真を撮りに来たついでにと、泡盛を持参してM・Y氏を訪ねて来た。戦友とはいっても所属が異なるため、それほど親しい関係ではないし、またなぜ、この二人が座間味の慰霊祭を撮影するのか疑問に思いながらも、はるばる遠いところから来てくれたと、M・Y氏は招き入れた。何時間飲み続けたか、M・Y氏が泥酔しているところに梅澤氏が紙を一枚持ってやってきた。家人の話では朝7時頃になっていたという。「決して迷惑はかけないから」と、三たび押印を頼んだ。上機嫌でもあったM・Y氏は、実印を取り出し、今度は押印したのである。」
とその経過を書いている。
この翌月1987年4月18日の神戸新聞に「座間味の集団自決に梅澤氏の命令はなかった」との記事が掲載されました。A氏が押印した文書は裁判の証拠として提出されているのです。
梅澤元少佐はA氏を二重三重に貶めたのです。
深い傷を心に秘めた人々から証言を聞き出すことは、かさぶたをはがして、血のにじみ出た所から傷口に入り込むような残酷さがあります。
しかし、この作業なしに歴史を後世に正しく残せません。
渡嘉敷島で証言してくれた97才になるおばあさんが自決現場近くに案内してくれました。しかし、身体が震えて現場までたどり着けませんでした。インタビューが終わると1時間も泣き続けていたと、あとで長男から聞きました。
証言をしていただいた方々の心の奥にしまい込んだ深い傷を思うとき、一度や二度の取材でこの人々の痛みを理解したなどと絶対に言ってはならないと固く思ったのです。
これまで、これほど真剣に取材対象と向き合ったことはありませんでした(今までは真剣ではなかったと言うことではないのですが)。
この取材はある意味、命がけ。中途半端は許されない、心してかからねばならいと思っています。
--
森住 卓
(引用おわり)
『ときどきLOGOS』の鳥居正宏でございます。
このたびは、御記事中に拙ブログの記事を紹介してくださり、そのうえトラックバックまでいただき、誠にありがとうございました!
じつは、私の記事中に引用した森住氏のレポートは、その発信元の森住氏が、10月16日に、いちど白紙撤回され、森住氏自身のブログからも完全に削除されていたのです。そして年代などの事実誤認を訂正してから再び配信され、森住氏自身のブログにも18日に再アップされていました。私はそのことを昨日(10月21日)に知ったので、私のブログでの引用部分も、21日に、あわてて最新版に差し替えました。
最新版の記事は、森住氏のブログの以下のURLで読む事ができます。
http://mphoto.sblo.jp/article/5976589.html
ご丁寧にコメントを頂きましてありがとうございます。
こちらこそ、またひとつ真実に触れる事が出来、感謝申し上げます。
早速幣ブログの記事も訂正いたしました。
長井健司さんをはじめ、ある時は命を張ってでも伝えようとする、
勇気あるジャーナリストの方達の、こういう利害を超えた行動が
世の中を変えるきっかけになって欲しいと、願ってやみません。
ところで、ごまめの翁様のTB不通について、鳥居様がgooに対して
取られた行動には、背筋が伸びると同時に、拍手喝采です。
普通の事を普通につぶやくだけで監視・レイティングの対象になるなら
警察国家の始まりです。
これからもよろしくお願い致します。