この一年、訪問してくださった方、コメントやTB を寄せてくださった方に
感謝申し上げます。
飽きっぽい自分が更新を続けていられるのも、人との情報の交換が
面白いからだと思う。
今回は、『Saudade(サウダーヂ)な日々』というタイトルにつながる
一枚のアルバムを。
LUZ(ルース)
1982年/CBS SONY→現在はEPIC SONYより発売(ESCA 7781)
日本版ジャケオリジナル版ジャケ
Djavan(ジャヴァン)というミュージシャンとの出逢いは学生のころだった。
「ジャケットの鳥がすごくキレイでさ。試しに聴いたら、当りだったよ。」
LPの貸しレコードからコピーした一本のテープが、友人から手渡された。
LUZ ポルトガル語で「光」。
「ふ〜ん。じゃ、聴いてみっか。サンバかい。。。
だいいち、名前読めねーし。。。」
オープニング曲はいきなりミディアムテンポのレゲエ「Samurai」。
始まってすぐヴォーカルと寄り添う人懐っこいブルースハープは
紛れもなくスティーヴィー・ワンダーその人だった。
期待は、いい意味で見事に外れた。
いわゆる日本人の抱く『ブラジルっぽさ』がないのだ。
まっすぐに突き抜けるハイトーンと優しさの同居する声。
経験したことのない、微熱を帯びたような
たゆたうような、着地しそうでしない、メロディーとハ−モニ−。
謎に満ちた夢見るようなポルトガル語の詞と、
遠くアフリカの匂いのする跳ねたリズム。
聴いていると、自分がどこの国にいるのか分からなくなる。
人は誰もEstrangeiro(よそ者)だ。でもそれを日常が覆い隠している。
目隠しを外された時の、不安だけれど最高に自由な気持ち。
この一枚のアルバムで、ブラジルのポピュラー音楽に対する偏見を
根底から打ち壊されてしまった。
聴いた事のあるのはジョアン・ジルベルトとセルジオ・メンデスくらいで
「サンバとボサノバの国」程度の認識だった自分を恥じた。
アメリカ大陸の南半分には、目もくらむような宝物が輝いているんだ。
このアルバムがキッカケで、ブラジル音楽の虜になった。。。
イヴァン・リンスさんを可愛がっていたスーパー・プロデューサー、
クインシー・ジョーンズさんの目に留まったのがブレイクの発端で、
5作目にしてブラジル国内レーベルSom LibreからCBSへ移籍。
ロスの超一流のスタジオミュージシャンたちをフィーチャーして
1982年の米国デビューを飾った当時、既に33歳だった。
アルバム製作時、ジャヴァンさんがクインシーの仲介でスティーヴィーに
参加を打診すると、二つ返事で「米国では無名の新人」の依頼を快諾、
「楽曲が、すごくいい。今までのアルバム全部聴かせて欲しい。」と頼んだそうだ。
1949年、北東部のアマゾン下流の街、アラゴアス州マセイオ生まれ。
バイーア州などがある北東部は、その悲しい歴史から、アフリカ文化の色が濃い。
ポール・マッカートニーに憧れるバンド&サッカー少年。
女手一つで子供たちを育てる母。
当時、国は軍事政権下にあった。
非白人の青年の置かれた現実。選択は多くない。
軍隊に入ったが、耐え切れず逃げ出してしまう。
ギターひとつ抱えて地元でバンド活動に戻り、シンガー・ソングライターを目指す。
酔客相手にビートルズのコピーをしながら食いつなぎ、腕を磨く。
24でリオ・デ・ジャネイロに出、26の時にサンパウロのメジャーな音楽フェスティバルで入賞、
翌76年に27でメジャー・デビュー。
(1947年生まれと書いている音楽誌やブログもありますが、ここではレコード会社
の記述に従いました。まあ、歳なんかどうでもいいけどさ。)
1964年のクーデターで出現した軍事政権に反対する「トロピカリスモ」という
運動に身を投じた最後の世代のひとりでもある。
全ての表現活動を弾圧する軍政は1985年まで実に21年間続いた。
全土に蔓延する拷問・殺害。。。
ボサノヴァ(新しい波)から始まる反抗の音楽たちも、レコード会社を操る政財界から
完膚なきまでに干渉を受けた。しかし、多くのミュージシャンは屈しなかった。
運動の先輩たちには、カエターノ・ヴェローゾ&マリア・ベターニア兄妹、
ジョルジ・ベンジオール(ジョルジ・ベン)、ガル コスタ、ナラ・レオン、
ジルベルト・ジル、エリス・レジーナ、ミルトン・ナシメントなど、
ブラジルのポップスを文字通り、背負って来たパルチザンたちがいる。
(急先鋒のナラとカエターノは殆どまともに活動できなくなり、カエターノは一時イギリスに、
ナラはパリに、それぞれ亡命を余儀なくされた。)
誰もが比喩を多用し、隠れキリシタンの念仏式の聖歌「オラショ」のように
「分かる人には分かる」高度に洗練された表現で反抗を続けた。
暗示的な歌詞表現の手法などがジャヴァンさんの作風に大きく影響しているのは
明らかだ。
しぜんと彼の歌には、直接・間接に人権侵害に抗議する作品が多い。
ジャヴァンさんはアフリカ・アンゴラなどから拉致されて来た奴隷、そして
殺戮の歴史を生き抜いてきた先住民(インヂオ)という、自分の中に流れる
自然とともに生きる二つのルーツの血を誇りとしている。
アコースティックな響きを大切にし、愛用する楽器はオベイションだ。
ライブでは80年代後半に2回、95年に1回の計3回来日している。
95年11月の時は、コンサートの間中、オーディエンス一人一人と目を合わそうとしていた。
そして最後に、ステージに群がるファン全員と、力強く、長い間握手して下さった。
当時すでに、中南米では押しも押されもせぬスーパースターだったのに、
なかなか遠い日本まで来られない事を自覚し、ファンの気持ちに応えようと
されていたのだと思う。
楽々と熱気溢れるステージをこなしたミュージシャンのしなやかな指は、
ギターを冷静にコントロールしようという緊張からか、汗ばみ、冷え切っていた。
その真面目さ、腰の低い優しさが、10年以上経った今もこの手に感触として残っている。
(すばらしい演奏をした人の手は、決まって緊張に冷え切っている。
少なくとも自分が今まで接してきた音楽家はみんなそうだった。)
今ではお嬢さんのフラヴィア・ヴィルジニアさん、
息子さんのマックス・ヴィアナさん&ジョアン・ヴィアナさんも
人気ミュージシャンとなり、音楽のゲノムを受け継いで活躍されている。
MPB(ブラジリアンポップミュージック)の名でひとくくりにされてしまう事が多い
ブラジルの音楽シーンは、ショーロ、ボサノバなどをベースにしながら、
アフロ、ジャズ、ソウル、R&B、ロック、ヒップホップ等が自由に溶け合い、
世界でもまれに見る程の豊穣な文化の海を形成している。
多様性は強さだ。ケルトや沖縄の音楽の豊かさを見ればわかる。
ブラジル音楽を「リゾートっぽいアイテム」として楽しむのも、もちろんステキだ。
いつもの部屋が、一瞬にして熱帯の花が咲き乱れる楽園に変わる。
でも、戯れにそっとめくった花弁の間から薫り立つ、甘やかでいて、
心を揺さぶる何かを吸い込んだ時、あなたは扉を開かずにいられなくなる。
切なさ、憧れ、光と翳。一緒に生きることのすばらしさ。
大切なものは、葉末の朝露のように。
ようこそ。Saudadeな日々へ。